「うそだろ……」

 俺たちはまばらに人の通行する駅前に居た。あの夏休みと同じように。

 どういうことだ。ハルヒは何も起こさないんじゃなかったのか。ハルヒの課題は終了して俺たちは穏やか

に一年を始められるんじゃなかったのか。

「僕もできればそちらの方が嬉しいですね。ただ、このままでは穏やかに始めるどころか、元日の終わりを

迎えられる可能性も危うくなってくるかもしれません」

 古泉が少々真剣ながらも柔和な表情を崩さずそう言ってきた。だが、そこには奇妙な気配が見え隠れして

いる。気色の悪い笑顔だが、今は別の意味で気色が悪い。どうしてこんなことになっちまった。

 俺は隣に立ちつくしている朝比奈さんを見た。古泉から連絡を受けて駆けつけてきたらしい。彼女はオロ

オロと落ち着きのない様子で『私はなにをすればいいんでしょうか……』と呟いている。どうやら今になっ

て突然未来と連絡が取れなくなったそうだ。

 俺の頭は一秒ごとに冷静さを欠いていく。考えなくてはいけないことは富士山よりも高く堆積してるって

のに俺の脳は何一つまともに処理を行わない。くそっ、どうなってる。俺はどうすればいい。考えろ。

 平和な日常に終わりを告げたのは古泉の一言だった。

『涼宮さんの精神に急激な変化が見られました。おそらくは――』

 あの夏休みと同じ。未来は永遠にやってこない。エンドレスな日々のループ。

 古泉はそう告げると携帯で連絡を取り始めたのだった。そして駅前に移動して数分、朝比奈さんがやって

きた。

『キョン君、あたし……未来に……』

 朝比奈さんは未来と連絡が取れなくなったことを話すと、どうすれば、と言って俯いてしまった。よほど

ショックだったのだろう。なにせ二回目だ。一回目は無事未来を取り戻すことができたが、今度も取り戻せ

るという保障はどこにもない。俺だって過去に行って帰る方法がなくなったら絶望する。

 そしてその一分後、そうだ。

 俺は長門を見る。セーラー服にダッフルコートを着て、頭はフードにすっぽりと覆われている。そこにあ

るのはおなじみの無表情。いつもの長門だ。

『涼宮ハルヒによって今から五十二分後以降の未来が抹消されようとしている』

 駅前に現れた長門はそう言い、沈黙した。

 そうして、俺はただ驚嘆の言葉を呟くのみでどうすることもできなかった。

 目の前の長門はただ黙っている。

 何もかもあの夏休みと同じだ。古泉のいつもと違う表情も、朝比奈さんが未来に帰れなくなったことも、

長門が黙っていることも、周囲の状況も、場所も人も状況もなにもかもだ。

 既視感だらけ。どういうことだ。ハルヒは何も起こさなくて、ループなんてしていないんじゃなかったの

か。なぜだ。しかし現に既視感は俺に襲い掛かっている。どうしてだ。いったい――――

 そこで俺は気付いてしまった。

「長門……お前」

 前回のエンドレスに二週間を繰り返した際、俺たちは記憶を持ち越すことはなかった。だから俺には一回

分の記憶しかない。もしも持ち越すことが出来ていたらもっと早くにループを脱することができたかもしれ

ない。

 だがそうでない人物がいた。長門だ。

 情報統合思念体を親玉に持つ長門はどんな理屈かは知らんが記憶を持ち越していた。だが、長門はただ黙

っていた。俺たちが尋ねるまではループしていることを教えてくれなかった。それはなぜだ。

 長門は言った。自分の役割は観測だと。

 

『今回が、一万五千四百九十八回目に該当する』

 

 俺は怖かった。またそう言われるのではないかと思ったからだ。そう思いたくなかったのだ。

 長門が暴走し、ハルヒが消失したあの事件。死のもの狂いで掴み取った結果、長門の信頼を得ることがで

きたと思った。だが、それは俺が勝手にそう思っていただけなのかもしれない。

 そんなことはない。

 と、俺の本心は叫んでいる。だが、俺が長門を信じていていても長門はそうは思っていないのではないか

と一抹の不安が頭をよぎり、そのたった一つの些細な疑問に俺は絡め取られてしまう。長門は約束してくれ

た。しかしそれは嘘だったのかもしれない。長門が俺を裏切ったのかもしれない。もっと悪い方向として、

長門の中身が変わってしまった可能性だってあるかもしれない。そんなことはない。そんなことはないと思

っても小さな疑問は俺の心を不安で押しつぶしてくる。

 俺は怖かった。

 不安だった。

 

「大丈夫、わたしはここにいる」

 

 俺ははっとなって顔を上げた。長門が宇宙のような黒い瞳で真っ直ぐ俺を見つめていた。

 長門有希はそこにいた。

「わたしはあなたを信じている」

 俺を絡め取っていた疑問の糸が崩れ落ちていく。いままでなぜこんなものに負けそうになっていたのか理

解できないほどにあっさりと消え去っていった。そうだ、何を弱気になってる。長門にこれ以上負担を掛け

ないと言ったのはどこのどいつだ。信じてくれた長門を裏切ろうとしたのはどっちだ。

「すまん、古泉、頼みがある。俺をぶん殴ってくれ」

「いいんですか?」

「構わん。思いっきりやってくれ」

 バチン、と鈍い音が響いた。朝比奈さんは目を瞑っていた。すみません。悪いのは俺なんです。

 俺は頬をさする。自分じゃ思いっきり殴れないからな。でもまだ手加減気味だったぜ、古泉。

「これが精一杯ですよ」

「ああ、悪かったな。ありがとう」

 俺は古泉に礼を告げ、長門へと向き直った。

「すまなかった。長門。俺はお前を裏切ろうとした。お前は信じてくれていたのにな」

「構わない。わたしは大丈夫。それに」

 長門はそのままの表情で言った。

「まだ世界はループしていない。今ならまだ間に合う」

 

 

 俺は長門に尋ねる。

「まだ間に合うってどういうことだ?」

「涼宮ハルヒはまだ完全に時間平面を消去してはいない。今は準備段階」

「今ならまだ止められるってことか」

「そう」

 長門は小さく顎を動かすと続けて言葉を発する。

「でも、時間の問題。涼宮ハルヒが眠りについた直後、時間平面は過去のものへと連結される」

 ループしちまうってことか。夏休みみたいに。

「涼宮ハルヒが帰宅し眠りにつくまで約四十分かかる」

 俺は愕然とした。四十分。少なすぎる。もうちょっと時間をくれよハルヒ。

「どうすりゃ止められる」

 長門は答えなかった。そりゃそうだ。分かっていればこんなことにはなっていない。そしてハルヒを止め

るのは俺の役目だ。そのためには止める方法を考えろ。

 俺は脳細胞をフル回転させる。その間にも残り時間は刻一刻となくなっていく。

「くそ、どうすりゃいい。どうすりゃ……」

 ハルヒはいったい俺にどうしろとというのだ。夏休みのあいつは、心のどこかのやりのこした部分に不満

を持っていたから、夏休みを何度もやりなおした。じゃあ今回は何が不満だったんだ。さっきまで楽しそう

にしてたじゃねえか。

「…………」

 違う。ハルヒがどんなに無茶な注文をしてこようと、もうやりなおしたりするはずはない。古泉も言って

た通り、あいつだって成長する。団員が倒れたとなれば自分の身を犠牲にしてでも付きっきりで看病する。

あいつはそういう奴だ。ハルヒだって変わるのだ。もう一度ループを起こす馬鹿じゃない。それは俺自身が

良く分かっている。

 俺の頭が疑問を処理し、そして新たな疑問を弾き出す。

「あいつは……何でループなんかしようとしてるんだ?」

 古泉が俺のほうを見た。

「それはどういうことでしょうか?」

「古泉、そもそもあいつは何で世界をループさせようと考えたと思う? さっきまで楽しそうに笑っていた

奴が何か不満を持ってたとは考えにくい。今のハルヒならなおさらだ。じゃあ、何であいつはループなんて

しようとしてんだ?」

 そこから先が分からん。さっぱり見当も付かなかければ答えを導くこともできない。不満がなけりゃルー

プさせる必要もないからだ。

 しかし、古泉は何かに気付いたようだった。

「なるほど。そういうことですか」

 どういうことだ。時間がない、教えてくれ。

「涼宮さんに不満があったとは考えにくいと、そうおっしゃいましたね?」

 ああ。ハルヒは何一つ後悔の残らないようこの一週間遊び倒したからな。

「僕もそう思います。彼女に不満が残っているとは考えにくいでしょう。もし仮に、残っていたとしても涼

宮さんがもう一度夏休みのように世界を終わりが来ない状態にすることはないでしょう。でも、もしもルー

プさせる原因が不満でなかったらどうでしょうか」

 不満が原因じゃなかった? どういうこった。

「失礼、ではもっと分かりやすく言いましょう」

 古泉はそこで一度切って、

「もしも、ループせざるを得ない状況だったらどうでしょうか」

「せざるを……得ない……?」

「そうです。不満を解消しようとして起こした能動的な行動でなく、何かを消去したくて起こした受動的な

行動だったとしたら? 涼宮さんが逃げ出したい、消し去りたいと思わせる程の原因があるとしたら」

 じゃあその原因とやらは何だってんだ。ハルヒが逃げ出す程のもんだと? それが分からなきゃ意味ねえ

ぞ。俺には考え付かん。

「ここからは僕の勘ですが、一つ」

 ハルヒの考えを変える程のもんがあるってのか。

「不安と恐怖ですよ」

 俺の頭の中でバチリと何かが爆ぜた。

「人の感情や心と言うものはあまりに脆いものです。どれだけ確固たる意思があっても、いとも簡単に不安

や恐怖と言った負の産物に塗りつぶされてしまう。あなたも一度くらいは経験したことがあるのではないで

すか?」

 俺は長門を見ていた。あるさ。ある。ついさっき嫌というほど味わった。ハルヒ消失事件を乗り越えて、

俺は何があっても長門を信頼しようとしていた。だが、それは不安と恐怖によって崩れ去った。

 そういうことか。

 つまりハルヒも何かが怖くてそれから逃げ出したかったんだ。どれだけ気丈に振舞ったところでなまじ世

界を変える能力があるから、無意識の内にまた世界をループさせちまった。恐怖に抗った結果、無意識に世

界をループさせることが捌け口になっちまったってことか。

「ふざけるな」

 そう言ったのははハルヒに対してかもしれないし、俺自身に対してかもしれん。それかもっと別のもんか、

あるいは全部だ。

「あいつは何を一人で解決しようとしてんだ。もっと誰かに頼ったっていいじゃねえか」

 どうして長門もハルヒも一人で抱え込もうとする。俺にでも勝手にぶちまけてればいいんだ。俺じゃなく

てもいい。朝比奈さんでも古泉でも、鶴屋さんだってきっと協力してくれる。一人じゃ無理なら全員で解決

してやる。もっと頼りにしやがれ。

「ああ見えて」

 古泉が話し始めた。

「涼宮さんはナイーブな精神の持ち主です。憂鬱になったり動揺したり。それはなにも涼宮さんが弱いから

ではありません。普通のことなんです。恥ずかしながら僕だって悩んだり自暴自棄になったりします。超能

力者というタグが付けられていても中身は普通の高校生ですからね。僕やあなたや朝比奈さんや――長門さ

んも、ひょっとしたら鶴屋さんだって――中身はただの高校生です。もちろん涼宮さんも、不安になったり

恐怖したりするただの一女子高生なんですよ」

「…………」

 古泉は溜息まじりに、

「もっとも、涼宮さんが何に不安や恐怖を感じているのかは分かりませんけどね」

 しかし古泉の口調は陰鬱なものではなく、それは俺に『もう何をすればいいのかは分かってますね』と諭

しているようだった。

 わかってるさ。

「朝比奈さん。いつもハルヒと別れる場所はどこです?」

「え、えと……」

 俺は朝比奈さんからハルヒの手がかりを聞き、SOS団の団員を見た。

 そこには足りないものがある。

 

「必ずハルヒを見つけ出してくる」

 

 

次へ